スーパーGT 電撃参戦!元F1チャンピオン、ジェンソン・バトンとは?

元F1チャンピオンのジェンソン・バトンが2018年のスーパーGTに参戦するという発表は、年明け早々の日本のモータースポーツ・ファンを熱くさせた。

これまでもミハエル・シューマッハやジャック・ビルヌーブというF1チャンピオンが、かつて日本でレースを行なっていたことはある。だが、彼らの挑戦はいずれもF1ドライバーになる前の若手時代。今回のバトンのように、モータースポーツの最高峰であるF1で頂点を極めたスーパースターが、F1のキャリアを終えてから日本のレースにシーズンを通してフル参戦するというのは、日本のレース史上、今回が初めてとなる。

イギリス・サマセット州出身のバトンがレース人生をスタートさせたのは8歳のとき。1976年にRACイギリスラリークロス選手権でランキング2位を獲得したことがある父親のジョンからもらった60ccのゴーカートで参加したレースで優勝したのがきっかけだった。父親譲りのスピードとテクニックで、3年後の91年にはイギリス・カデット・カート選手権を34戦全勝という圧倒的な強さで制覇した。四輪に転向した98年にはイギリスのフォーミュラ・フォード選手権に参戦。ここでも才能をいかんなく発揮して1年目でいきなりタイトルを獲得すると、F1チームからテストの誘いを受けるようになる。あるテストでは、その年F1を走らせていたドライバーよりも速いラップタイムを刻んで、F1関係者を驚かせたこともあった。

バトンの若き才能に目をつけたのが、イギリスの老舗チームのオーナー、フランク・ウィリアムズだった。その目に狂いがなかったことは、デビューからわずか2戦目の2000年ブラジルGPで6位入賞を果たしたことでもわかる。このとき、バトンは20歳になったばかりで、20歳67日での入賞は1962年のベルギーGPでリカルド・ロドリゲスが樹立した20歳123日というF1最年少入賞記録を38年ぶりに更新する偉業だった。

だが、バトンは才能だけで、F1の頂点に登り詰めたわけではない。F1には世界中から才能溢れるトップドライバーが集結する。その中で、バトンは自分のシートを明け渡さなければならない状況を、過去に2度経験していた。ウィリアムズがアメリカのCARTでチャンピオンに輝いたファン・パブロ・モントーヤと契約した01年。そして、当時ルノーのチーム代表を務めていたフラビオ・ブリアトーレが、自分がマネージャーを務めているテストドライバーのフェルナンド・アロンソをレギュラードライバーに昇格させた03年だ。

そのような冷遇にもバトンは腐ることなく、与えられた場所で最善の結果を残す努力を怠らなかった。そんな姿勢を評価したのがホンダだった。03年にホンダがサポートするBARに移籍したバトンは、その後ホンダとともにステップアップ。04年の第2戦マレーシアGPでは初の表彰台を獲得。4戦目のサンマリノGPでは初のポールポジションを獲得するなど大活躍したバトンはこの年の選手権を3位で終え、トップドライバーの仲間入りを果たした。

さらに2年後の06年の第13戦ハンガリーGPで、バトンはついにF1での初優勝を果たす。若いときから非凡な才能を披露していたバトンも、気がつけば、F1生活7年目のベテラン。115戦目(113戦スタート)での歓喜の初優勝は、当時としては125戦目のルーベンス・バリチェロ、119戦目のトゥルーリに次いで、史上3番目に遅い栄冠だった。

またこの勝利は、この年からBARからチーム名を変更し、コンストラクターとしてF1に参戦していたホンダにとっても、1967年のイタリアGP(ジョン・サーティース)以来となる39年ぶりの勝利(通算3勝目)となった。

 

だが、ホンダとの蜜月は突然、終わりの時を迎える。リーマン・ショックに端を発した世界的な不況の影響を受けて、ホンダが08年シーズン終了後にF1からの撤退を発表したからだ。このとき、トップドライバーのバトンには存亡の危機に直面しているチームを出て、他チームへ移籍する選択も残されていた。だが、バトンは「船が沈みかけているからといって、仲間を残して自分たちだけ逃げるわけにはいかない」と、存続の可能性が完全になくなるまでチームに残る決定を下す。

この決断によって、バトンはどん底からF1界の頂点へと登り詰めるおとぎ話の主人公となる。

09年、なんとか存続することになったチームには、ホンダの残していったマシンがあった。それはこの年から導入される新しいレギュレーションに合わせて作られたマシンで、バトンがそれまで運転したどのマシンよりも戦闘力が高かった。開幕から7戦して6勝を挙げ、前半戦で大量のリードを築いたバトンは、念願のワールドチャンピオンに輝いた。

頂点に立ったバトンだが、その後も歳を重ねるごとに円熟味を増し、レーシングドライバーとしてだけでなく、ひとりの人間として魅力あるレーサーへと成長。速いだけでなく、偉大なF1ドライバーとして、多くの人々に愛された。16年に引退するまで、300を超えるレースに出場。バトン以外に、これほど長いキャリアを送ることができたのはルーベンス・バリチェロとミハエル・シューマッハの2人しかおらず、いかにバトンがF1界にとって、必要とされていたかがわかる。

そのバトンが、F1後の舞台として選んだ場所が日本のスーパーGTだった。イギリス人のバトンがなぜ、日本を選んだのか? それはバトンが日本と日本のレースを愛していたからだ。バトンがかつてモデルの道端ジェシカさんと結婚していたことは多くの日本人が知るところだが、バトンは道端ジェシカさんのことだけでなく、日本の文化・精神も愛していた。自ら作ったランニングチームの名前は「イチバン(一番)」。F1時代は毎グランプリ、そばを食していたほどだ。

バトンがF1を引退した理由は「17年間、戦ってきたので、少し休息が必要だった」からだが、「F1を離れてリラックスした後は、これまでの人生でできなかったことにチャレンジしたい」とも語っていた。そのバトンが休息していた17年に出会ったのが、「10年以上も前から、このシリーズに注目していた」というスーパーGTだった。

スーパーGTに限らず、日本のレースは世界、とりわけヨーロッパから常に注目される存在となっている。その理由のひとつが、レースを行うレベルの高さにある。日本は世界有数の自動車先進国であると同時に、タイヤをはじめとしたパーツメーカーも充実しているだけでなく、サーキットの舗装の技術も高い。さらに世界へは羽ばたいていないものの、そのような条件の中で高度なテクニックを磨いてきたドライバーもひしめき合っている。1つの国でこれだけ条件が整っているのは、ほかに例がないのである。

F1王者のバトンが、日本のスーパーGTでどこまでやれるのか? 日本のファンだけでなく、F1界も、そして世界中のモータースポーツファンも注目している。

Text by Masahiro Owari

スーパーGT公式サイト
https://supergt.net

JAF(日本自動車連盟)公式サイト
http://www.jaf.or.jp

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